雨傘運動と普通選挙

2014年に起こった反政府活動は雨傘運動(雨傘革命)と呼ばれ、広く海外にも知られている。

さかのぼること2003年、50万人デモが発生すると、香港政府は経済政策や教育政策で香港の取り込みを進めたが、香港の民主派は普通選挙の早期実現を目指すこととなった。香港基本法では2007年以降の普通選挙が定められているが、その具体的な時期などについては言及されていない。

選挙制度改革のためには、香港立法会全議員の3分の2の賛成による可決と行政長官同意の上中国全人代に報告されるとなっているため、選挙制度改革については香港側の裁量で決定できるとの見方が占めていた。しかしこれに釘を刺すように中国政府は2004年4月6日、基本法解釈を発表する。中国政府が利用したのは基本法に記載のある「選挙制度改正の必要(如需)がある場合」との文言で、まずは改正の必要性について行政長官から全人代へ報告し、全人代が判断するという手続きを決定した。そして2007年の行政長官選挙、2008年の立法会議員選挙で普通選挙は行わないことを決定する。

融和ムードが高まった2007年になると全人代は2017年の行政長官選挙を普通選挙化してもよいと決定する。ここに香港の普通選挙実施について初めて具体的なタイミングが決定された。一方同じく基本法で設置することが定められている指名委員会については明確にされないままであった。

指名委員会とは、広汎な代表制を持ち、民主的な手続きで候補者を指名すると定められているが、委員の構成や指名までのプロセスについては定められていない。全人代は普通選挙を2017年に導入してもよいとした際、指名委員会については現行の行政長官選挙委員会の構成を参照するとした。選挙委員会は親中派の財界人などから構成され、北京の意図が強く反映される。ここにおいて議論は民意が反映される真の普通選挙となるか、北京の思い通りになる名ばかりの普通選挙となるかに移った。

2013年に入ると、香港大学法学部副教授の戴耀廷(ベニー・タイ)が占領中環(オキュパイセントラル)を提唱し始める。これは北京に圧力をかけるために、一万人以上を動員して金融の中心である金鐘(アドミラルティ)を非暴力に占拠するというものである。ベニー・タイは香港中文大学副教授の陳 健民、キリスト教会の朱 耀明とともにオキュパイセントラルの信念書を発表する。このような動きの中、中国政府も態度を硬化させ、2013年3月24日には喬暁陽全人代法律委員会主任委員が具体名を挙げながら中国に反対するものは立候補できないとする声明を出す。また、2014年6月10日、中国政府は「一国二制度白書」を作成し、「中央政府は香港に対する全面的な統治権を有する」と明記した。

民主派側も市民投票によりあるべき普通選挙の方式を選ぶというキャンペーンを実施した。この電子投票サイトには中国政府からの国家級のハッキングが行われ、逆に民主派の情熱に火を注いだ結果、キャンペーンにはおよそ80万人が参加した。またこの年の返還記念日のデモには50万人超が参加した。

そして8月31日、全人代は行政長官選挙立候補のためには親中派が占める指名委員1200人の過半数の指名が必要と決定する。これにより真の普通選挙への道は閉ざされた。

ベニー・タイらはオキュパイセントラルを実行に移すと宣言し、実行時期として国慶節(10月1日)を示唆する。これに学生組織が積極的な反応を見せる。2014年9月22日、香港の各大学の学生組織である学連は1週間の授業ボイコットを発動する。9月26日には学民思潮が授業ボイコットを実施し中高生も大学生の動きに追随する。また学民思潮は反愛国教育運動と同じように、公民広場前で集会を開催する。この際警戒した政府側により公民広場は封鎖されていたが、午後10時頃ジョシュア・ウォンらが柵を乗り越えが公民広場へ乱入。多数が警察に逮捕された。

27日は土曜日であったため、5万人もの学生や市民が公民広場前へかけつけ、日をまたいだ28日深夜1時38分、ベニー・タイはオキュパイセントラル開始を宣言する。

開始宣言当初は集まった学生らもどうすればよいかわからず、沿道で待機している状態であった。しかし28日午後になるとあまりにも多くの市民がアドミラルティ周辺に集まり、ついに公民広場横の路上に人があふれ出し、オキュパイが始まった。これに対し警官隊は催涙弾を撃つ。この場所には陸橋がかかっているが、催涙弾を見た市民が路上の学生らに傘を投げ込み、印象的な雨傘運動の光景が広がった。民主派はコーズウェイベイや旺角でも占拠を開始した。オキュパイセントラルは1日で警察に一人ずつ逮捕されて終了するシナリオであったが、今や雨傘運動となり、長期にわたる占拠が開始された。

10月21日には香港政府と学生代表の対話が行われたが、議論は一切かみ合わず、これが唯一の交渉となった。11月15日には北京との直接対話を試みた学生幹部が香港空港で搭乗拒否されている。

長期にわたる占拠による疲労、成果が出ないことへの学連幹部への疑念、そして生活が圧迫される市民からの不満が高まり、運動は行き詰まりをみせる。

警察は11月後半から徐々に強制排除を開始し、12月15日にはすべての排除を完了。ここに雨傘運動は何の具体的成果も得られないまま終了することとなった。

しかし長期にわたり学生等若者が集い、民主主義について議論を交わし、人脈を広げたことで、彼らはそれぞれの政治パートナーを見つけ、2016年の立法議会選挙へ向けて政党を結成する。デモシスト、本土民主前線、青年新政など、民主化運動の舞台は立法議会へ移ろうとしていた。

HK is NOT China.com / 香港の民主化運動:雨傘、普通選挙、そして自決

香港の民主派、独立派、自決派とよばれる若者を中心とした動きを解説します。雨傘運動は世界的に大きな注目を集めましたが、成果なく終わりました。その後雨傘運動の中心であった学生たちは議会へ戦いの場を移し、実際に当選者を多数輩出しましたが、そこで待ち受けていたのも中国の圧倒的な力でした。こうした中で広がる無力感や、日本のメディアでは民主派とひとくくりにされてしまい正確に伝わらない状況などを伝えます。

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